栄西が抹茶を伝え、宇治が茶どころになるまで
抹茶の飲み方が日本へ入ったのは、鎌倉時代の初めです。
1191年、栄西が持ち帰る
中国(宋)から帰国した栄西禅師が、当時中国で行われていた碾茶の製法と、粉にして飲む方法を伝えました。
栄西はのちに『喫茶養生記』を著します。栽培法と茶の効用を説いたもので、日本で最初の茶に関する文献とされています。
栂尾から宇治へ
栄西は、栂ノ尾(とがのお)高山寺の明恵上人に茶の栽培をすすめました。ここが日本の茶園の出発点のひとつになります。
その明恵上人が、茶の生育に適した土地を求めて選んだのが宇治でした。川霧が深く、日照や温度の条件が茶に向いていたためです。
宇治は最初「非茶」だった
意外なことに、当初の格付けでは栂尾の茶が「本茶」とされ、宇治の茶は「非茶」の扱いを受けていました。産地としては後発だったわけです。
状況が変わるのは室町時代です。三代将軍・足利義満が宇治茶を庇護し、1390年頃には「宇治七名園」と呼ばれる茶園を開かせました。
これを境に宇治は天下一の茶どころとして知られるようになります。
覆下栽培という技術
宇治で発展したのが、覆いをかけて日光を遮る栽培方法です。
うま味成分のテアニンは、葉が日光を浴びると渋みのカテキンに変化します。覆うことでこの変化を抑え、うま味の多い葉を作る。碾茶と玉露はこの方法で育てられます。
現在も宇治では4月から5月にかけて、覆いによって茶樹の姿が見えなくなります。
抹茶用の品種も生まれた
宇治を中心に、在来種から覆下栽培に向く品種が選抜されてきました。さみどり、あさひ、ごこう、うじひかりなどです。
全国でもっとも広く栽培されている「やぶきた」は静岡生まれの品種で、煎茶には優れていますが、葉が黄色みを帯びて覆いをかけたときの染まりが良くないため、碾茶にはあまり向きません。
甘い飲み物になるのはずっとあと
ここまでが抹茶の話です。砂糖を加えた甘いグリーンティーが広まるのは、これより700年以上あとの昭和になってからのことでした。
